塾理念
当塾の塾理念です。精神科医で哲学者でもあるヤスパースの「精神病理学総論第6部」の精神を基礎に据えてお子さんの学習指導を行います。
医療は治すことが第一です。勉強も成績が向上するということがまず第一でなければならないと考えています。しかし、さらに当塾ではお子さんを一人の人間としてしっかりとサポートするということも成績向上と同じくらい重要だと考えています。その両方を実現するために塾理念が必要となりました。
以下は松井塾講師向けの塾理念です。以下の塾理念に基づき学習指導をしています。
精神病理学の教育への転用
・記述精神病理学
・現象学的精神病理学
・力動精神医学
ピネルがリンネの方法(属名と種小名の2語を用いる分類法)のように精神症状と精神障害を分類していった。
精神病理学は分類を行うために、精神障碍者が語る言葉や彼らの行動や表情に見られる「表出」を「記述」するという方法を取った。
ヤスパースが「精神病理学における現象学的研究方向」という論文と「精神病理学総論」という著書の中で精神病理学の方法論的基礎づけを行った。ヤスパースはフッサールの初期の立場である記述心理学やディルタイの「了解」概念を用いて、精神症状の的確な記述、分類、命名、類型化などを主として行う記述精神病理学を初めて体系化した。
「了解」
医師と患者という2人の人物がいる。自分に生じた心の状態や動きを話すのは患者のほう。医師は聞き手。医師はその患者の「心的体験」を自分のなかで写し取ってみる。その写し取った「心的体験」が類似の体験と同じものなのかどうかを意識しながら、名前をつけて区別してカルテに記入する。これが「記述」というもの。
教師と生徒ならば同じく2人の人物がいる。生徒は問題を解き、勉強を教えている最中に何かを話す。それを教師は聞き手となって生徒の「心的体験」を自分のなかで写し取ってみる。その写し取った「心的体験」が類似の体験と同じものなのかどうかを意識しながら、名前(未定)をつけて区別してカルテに記入する。これを同じく「記述」と呼ぼう。
医師は患者が体験している事柄を自分のなかに写し取ることができると、その「心的体験」について「感情移入」ができるようになることがある。それを「了解」可能という。統合失調症患者の「操られ体験」はどうか。この「心的体験」は私たちが日常「わかる」ことができないような「衝撃」を持って記述される。このような「心的体験」を記述精神病理学では「了解」不能という。
教師と生徒ならば生徒が体験している事柄を自分のなかに写し取る。そうするとその「心的体験」について「感情移入」ができることがある。それを「了解」と名付ける。ある問題を間違えたとする。それが単なるミスである場合は後に見る「静態的了解」に当てはまる。ではこのような場合はどうか。生徒が問題の求め方に教師がいつも教えていない解き方を記入したとき。(その答えが正解か不正解は問わない)これも同じく「心的体験」と名付ける。それは私たち教師にとっては「わかる」ことができないような「衝撃」を持って記述される。このような「心的体験」を「了解」不能と呼ぼう。
「了解」のなかでも、患者の「心的体験」を自分のなかに写し取ってみるという「了解」は「静態的了解」という。そのほかに「了解」はもう1種類ある。ある「心的体験」から別の「心的体験」が発生してくること。それを「発生的了解」という。例えば、「恋人に浮気された」という体験をした者に現在まで生じる「嫉妬深い」という性格特徴など。この「静態的了解」と「発生的了解」が不可能な場合がある。特に統合失調症の患者である。
生徒が問題を教師から見て単なるミスで間違えてしまったことはそれを教師は「了解」できる。それを「静態的了解」とする。そのほかに「了解」はもう1種類ある。ある「心的体験」から別の「心的体験」が発生してくること。それを「発生的了解」という。例えば学校の教師から「この問題はこう解く」と教えられていてその求め方で解いたがそれが間違えたものだった、もしくは理解力不足であり誤答してしまった、という場合である。
「静態的了解」――感情移入できない。
「発生的了解」――これまでの「心的体験」や人格のありようから見ても了解できない。
患者の人生のある時点でそれまでの人生にとって異質な人生の連続性を切断するような不可逆な変化が新たに発生する。統合失調症患者のこのような経過の特徴をヤスパースは「過程」と呼んでいる。
「静態的了解」――単なる不注意、書き間違い、読み間違い、などが理由だと感情移入できない。*もちろん単なるミスと看過できないケースはある。
「発生的了解」――学校の教師やネット動画から誤った求め方を覚えてその方法で解くようになった、もしくは生徒の理解力不足から違った解釈で問題を解くようになってしまった。このような場合は教師から見て生徒のこれまでの「心的体験」や人格のありようから見ても了解できない。
生徒の学習のある時点でそれまでの学習とは異質な学習の連続性を切断するような不可逆の変化が新たに発生する。この時点からの経過の特徴をヤスパースに同じく「過程」と呼ぶ。
ヤスパースは「静態的了解」という方法によって析出する「わからなさ」を手掛かりに、もはや発生的了解が不可能な一次性の体験を見つけ、そこに「過程」の特徴を見出すことによって診断する。
教師はヤスパースと同じく「静態的了解」という方法によって析出する「わからなさ」を手掛かりに、もはや発生的了解が不可能な一次性の体験を見つけ、そこに「過程」の特徴を見出すことによって生徒の状態を判断する。
現象学的精神病理学
記述精神病理学との大きな違いは、記述精神病理学ではあらかじめ主体と客体の分離をしていることだ。そうでなければ記述はできない。ヤスパースの「了解」を中心とした場合どうしても生徒を客体(対象)として見ることは避けられない。現象学的精神病理学の手法は主体と客体を分離することなく、主体と客体の「あいだZwischen」の場所が中心となる。「あいだ」は教師と生徒がまだはっきりとわかれていない場所である。
生徒と教師とのあいだにはある種の「感触」がある。統合失調症患者に医師が相対したとき「プレコックス感」と言われる独特な感触がある。「了解」について書いたときには生徒が問題を解くときのその過程に着目したが、生徒と教師のあいだにはそれと並行して人のあいだの「感触」がある。この「感触」は生徒が言ってくるものでも教師が受信するものでもない。生徒が「先生があわない」と言ってきたり、教師が「この生徒はやりにくい」と思ったりしたときも、この「感触」のことではなくただの「『主観的』な感触」(つまり現象学的でない)である場合がほとんどだ。
この「感触」のなかで無理やり教師が生徒の「心的体験」に「了解」的な仕方で入り込もうとしたとき「壁」のようなものに跳ね返されてしまう。これは10代の生徒に独特の「感触」で特に思春期をむかえ自分が大人と子どもの「あいだ」を行ったり来たりする未成熟で不安定な時期に生じるものだ。おそらくそれは塾以外でも生徒が抱いている「感触」ではないだろうか。この世界との「あいだ」に「自然に」生きることが障害されている、そんな時期なのではないだろうか。そういった生徒の「あいだ」の領域における生き方を「現象学的」にとらえ、生徒の将来を「人間」としてより豊かなものにしていくことを検討することがこの現象学的精神病理学の意義だと感じる。
生徒にはそれまで生活世界で自然と思われていたことを、一旦判断停止(エポケー)してもう一度この世界を再構築しなおさせる。なぜならそこに臆見が含まれているからだ。エポケーしてからもう一度世界を理解させる。そのとき現象学的精神病理学の手法を使うわけだが、それは当然人間的なものでなくてはならない。世界の手触りが変わり不自然になったと生徒が「感触」をもったとき教師としての真価が問われるだろう。そこで教師は自分の安易な人生観を生徒に刷り込んではならない。教師は常に陰であり受動的でなくてはならない。生徒は教師の受動を受けて能動的に世界を再構築していく。
力動精神医学(精神分析)
フロイトが無意識と呼ぶ心の領域においては、ある観念や欲動triebが、他の観念や欲動とぶつかりあっていると考えられており、一方の力が他方の力を抑え込もうとしたときにさまざまな病理的現象が出てくると考えられている。
授業でも生徒の状態は刻一刻と変化している。その授業での変化に特に注目していく。記述精神病理学でできるのは授業のなかで生徒がほとんど変化しないことを前提にしているからだ。現象学的精神病理学でも生徒の世界への棲まい方は授業の前後でほとんど変化しないことを前提としている。力動精神医学では、ダイナミックに動き刻一刻とその状態を変える対象(生徒)に臨機応変に対応していく。生徒は一回の授業で何度も状態が変わることさえある。臨機応変に対応するために力動精神医学の手法は必要不可欠である。
以上の3つの立場の見方をゆるやかに視点移動しながら生徒に相対することが望ましい。
参考文献
『症例でわかる精神病理学』 松本卓也 誠信書房
『自己・あいだ・時間』 木村敏 ちくま学芸文庫
『哲学入門』 ヤスパース 新潮文庫
『哲学』 ヤスパース 中公クラシックス
『精神病理学総論』 ヤスパース 学樹書院
『ドゥルーズ=ガタリのシステム論と教育学』 森田裕之 学術出版会
