指導方針
・弊塾は学力という画一的な基準ではなく、その生徒さん生徒さんの目的、個性に合わせた丁寧な個別指導を行います。
・自分の意志で比較的自由な環境で勉強を進めたいという生徒さんに向けてatama+というAI教材を使った授業も取り入れています。目標設定、スケジュール管理は弊塾で行います。自由に勉強したい人向けです。atama+は新潟大学附属中学、新潟明訓中、新潟高校、新潟明訓高校受験対応可です。新潟大学工学部、中央大学理工学部合格実績あり。
・猫好きな方にも向いている塾です。あられ(黒)、とも(キジトラ)、くまお(黒)が塾内をうろうろしています。
弊塾固有の学習指導は特になく、既存のテキスト、atama+を使った指導となります。
昔、僕が耳にした歌のフレーズがあります。「希望の歌を口ずさみながら、空虚の谷を君と歩いてきた。今日までも、そして明日からも」
この世界がどんなものでも、人と(猫とでも)手を取りあい希望を持って前に進んで行ってほしい。永遠に続くかもしれないけれどきっとそれは悪くないものだと思います。
弊塾で何かを見つけてくれればと思っております。
・学力とは
・考える力
・主体性
学力と考える力そして主体性
今という時代に必要な学力とは何かを考えてみましょう。
私たちの中には学校での教育が無駄ではないかと考えている人もいると思います。しかしそれはおそらく学校教育で学ぶことの「意味」を自分で見つけ出すことができないからそう思うのだと思います。自分で、意味のないものに意味を見つけ出す作業に必要なもの、それが主体性だと思います。
僕が学校教育にどのような意味を見出すかを例に出してみましょう。
最初から余談になりますが、僕が学生の当時は第2次ベビーブームで大学入学希望者全員が大学に行けるわけではなく、席取りゲームが加熱していました。まさに受験戦争の時代でした。様々な先生方、予備校の先生方がそれぞれの世代からの意見をおっしゃられていますが、当時と今の受験難易度を比べるとかなり容易になっているのではないかという印象です。もちろん各偏差値帯によって印象は変わってくるので全体的に難易度が下がっているとは一概には言えません。あくまで一つの印象です。
受験問題のレベルは上がりましたが当然参考書や問題集が良くなり、様々なツールが現れたため学習効率が飛躍的に上がったと思います。ただ、単純に人口が減ったことと大学と学部の数が増えたことは大きいと思います。あとは今の受験生の受験に対する熱量も考えての印象でもあります。その当時、学校教育は偏差値とほぼイコールでした。偏差値に意味を見出せていた時代だったかもしれません。
今現在僕は将来、自分が塾で得た知識と経験を次の世代にフィードバックしたいと考えています。具体的には、可能であれば論文として残したいと考えています。我々が先人の偉大な功績のもとに今あるということは疑いのない事実だと思います。先人の智慧を学ぶものは何かと言えば、文書になります。我々は文書を読んで先人がどのように考えて時代を乗り越えてきたのかを学ぼうとします。
今は理系偏重の時代のように思われますが、僕の頃も数学ができない人が文系にまわるというケースは多かったように思います。では文系にどのようにポジティブに臨むかということですが、例えば歴史ですが、歴史は暗記科目と考えて単純に暗記している人がいます。暗記が苦手だ、大変だという話をよく聞きます。このような印象を持っている人はまず歴史を学ぶ意味を見つけられていないように思います。歴史は、古代から現代に至るまでの統治形態の歴史や動産、不動産の管理、税制の仕組みやその当時の文学、工芸、絵画などの様々なことを学びます。その中で興味を持ったものを自分で調べて広げていくことが大学の文系科目の特徴です。文系科目は、まず興味がないと一人前になることは難しいので大学で文系を選択することは一人前になれなかったときにリスクを負うことになります。興味を抱くものがないのならば就職しやすい理系を選択しておくというのは正解と言えるかもしれません。
興味を抱いてもらうために様々なことを勉強するために義務教育があり、学校教育ではその啓発を行っていると僕は考えています。ですが学校だけでそれをやるのはなかなか難しいと思います。職業体験や修学旅行などいろいろな体験なども併せて啓発を行っている努力を学校に見ることもできますがなかなか難しいようです。子どもにとって一番必要なのは、例えば上記のように学校で歴史を学ぶことにはこのような意味がある、のではないか、という問いかけをしてくれる存在だと思います。教科書や授業から課題を見つける契機となるもの、を与えてくれる存在です。僕の印象では社会で大きく羽ばたく人間というのはそのような契機をものにすることに鋭敏で、そこからより具体的な目標設定をして学業に取り組んでいるように見えます。学業以外でもスポーツ選手になりたいなどの子どもの頃に抱いた夢を実現するためにも、具体的に現実化させていく力が必要です。
もちろん僕のようなひとりの人間が未来のある生徒さんたちが夢を現実化させていくための指導などできませんし、そもそも今の急速な変化を遂げる時代に子どもたちに適切なアドバイスを与えられる大人も少ないでしょう。僕のできることは教科書や塾のテキストの文章をしっかりと読んでもらうこと、そして何が書かれているかを考えてもらうことです。その取り組みの中で子どもたちが何かに気づいてその意味を見つけ、主体的にその事柄に取り組むのを待つ。その気づきが来るのを待ち続けるのが仕事、気づきそうなときにその芽を摘まずにそれを尊重し大切に育てることが仕事だと考えています。気づき動き出したときにその子はまさに自立したと言えるでしょうし、社会に出ても自分の足で歩き続けていけるように努力を惜しまない人になると信じられます。
今の時代において学力を再定義するならば、偏差値に代表されるような人と競争しあう力ではなく、自分で気づく力、契機をものにして知識を広げ深めていく力だと思います。そのための方法が昔と変わったかというとそういうわけではなく、文章をしっかりと読んでそこに書かれた意味をしっかりと読み取ることです。テストというのはそれをきちんと理解できたかを試す場でしかない。競争の場である必要はない。そして学校の勉強以外でもきちんと自分が理解したその事柄を整理し運用できれば社会でもきちんと活用できる。社会では実際に自分で得た本当の力を使うことが求められます。社会で通用する本当の力を手に入れることが本来の学力を手に入れるということになるのではないでしょうか。
塾理念
当塾の塾理念です。精神科医で哲学者でもあるヤスパースの「精神病理学総論第6部」の精神を基礎に据えてお子さんの学習指導を行います。
医療は治すことが第一です。勉強も成績が向上するということがまず第一でなければならないと考えています。しかし、さらに当塾ではお子さんを一人の人間としてしっかりとサポートするということも成績向上と同じくらい重要だと考えています。その両方を実現するために塾理念が必要となりました。以下は松井塾講師向けの塾理念です。以下の塾理念に基づき学習指導をしています。
精神病理学の教育への転用
・記述精神病理学
・現象学的精神病理学
・力動精神医学
ピネルがリンネの方法(属名と種小名の2語を用いる分類法)のように精神症状と精神障害を分類していった。
精神病理学は分類を行うために、精神障碍者が語る言葉や彼らの行動や表情に見られる「表出」を「記述」するという方法を取った。
ヤスパースが「精神病理学における現象学的研究方向」という論文と「精神病理学総論」という著書の中で精神病理学の方法論的基礎づけを行った。ヤスパースはフッサールの初期の立場である記述心理学やディルタイの「了解」概念を用いて、精神症状の的確な記述、分類、命名、類型化などを主として行う記述精神病理学を初めて体系化した。
「了解」
医師と患者という2人の人物がいる。自分に生じた心の状態や動きを話すのは患者のほう。医師は聞き手。医師はその患者の「心的体験」を自分のなかで写し取ってみる。その写し取った「心的体験」が類似の体験と同じものなのかどうかを意識しながら、名前をつけて区別してカルテに記入する。これが「記述」というもの。
教師と生徒ならば同じく2人の人物がいる。生徒は問題を解き、勉強を教えている最中に何かを話す。それを教師は聞き手となって生徒の「心的体験」を自分のなかで写し取ってみる。その写し取った「心的体験」が類似の体験と同じものなのかどうかを意識しながら、名前(未定)をつけて区別してカルテに記入する。これを同じく「記述」と呼ぼう。
医師は患者が体験している事柄を自分のなかに写し取ることができると、その「心的体験」について「感情移入」ができるようになることがある。それを「了解」可能という。統合失調症患者の「操られ体験」はどうか。この「心的体験」は私たちが日常「わかる」ことができないような「衝撃」を持って記述される。このような「心的体験」を記述精神病理学では「了解」不能という。
教師と生徒ならば生徒が体験している事柄を自分のなかに写し取る。そうするとその「心的体験」について「感情移入」ができることがある。それを「了解」と名付ける。ある問題を間違えたとする。それが単なるミスである場合は後に見る「静態的了解」に当てはまる。ではこのような場合はどうか。生徒が問題の求め方に教師がいつも教えていない解き方を記入したとき。(その答えが正解か不正解は問わない)これも同じく「心的体験」と名付ける。それは私たち教師にとっては「わかる」ことができないような「衝撃」を持って記述される。このような「心的体験」を「了解」不能と呼ぼう。
「了解」のなかでも、患者の「心的体験」を自分のなかに写し取ってみるという「了解」は「静態的了解」という。そのほかに「了解」はもう1種類ある。ある「心的体験」から別の「心的体験」が発生してくること。それを「発生的了解」という。例えば、「恋人に浮気された」という体験をした者に現在まで生じる「嫉妬深い」という性格特徴など。この「静態的了解」と「発生的了解」が不可能な場合がある。特に統合失調症の患者である。
生徒が問題を教師から見て単なるミスで間違えてしまったことはそれを教師は「了解」できる。それを「静態的了解」とする。そのほかに「了解」はもう1種類ある。ある「心的体験」から別の「心的体験」が発生してくること。それを「発生的了解」という。例えば学校の教師から「この問題はこう解く」と教えられていてその求め方で解いたがそれが間違えたものだった、もしくは理解力不足であり誤答してしまった、という場合である。
「静態的了解」――感情移入できない。
「発生的了解」――これまでの「心的体験」や人格のありようから見ても了解できない。
患者の人生のある時点でそれまでの人生にとって異質な人生の連続性を切断するような不可逆な変化が新たに発生する。統合失調症患者のこのような経過の特徴をヤスパースは「過程」と呼んでいる。
「静態的了解」――単なる不注意、書き間違い、読み間違い、などが理由だと感情移入できない。*もちろん単なるミスと看過できないケースはある。
「発生的了解」――学校の教師やネット動画から誤った求め方を覚えてその方法で解くようになった、もしくは生徒の理解力不足から違った解釈で問題を解くようになってしまった。このような場合は教師から見て生徒のこれまでの「心的体験」や人格のありようから見ても了解できない。
生徒の学習のある時点でそれまでの学習とは異質な学習の連続性を切断するような不可逆の変化が新たに発生する。この時点からの経過の特徴をヤスパースに同じく「過程」と呼ぶ。
ヤスパースは「静態的了解」という方法によって析出する「わからなさ」を手掛かりに、もはや発生的了解が不可能な一次性の体験を見つけ、そこに「過程」の特徴を見出すことによって診断する。
教師はヤスパースと同じく「静態的了解」という方法によって析出する「わからなさ」を手掛かりに、もはや発生的了解が不可能な一次性の体験を見つけ、そこに「過程」の特徴を見出すことによって生徒の状態を判断する。
現象学的精神病理学
記述精神病理学との大きな違いは、記述精神病理学ではあらかじめ主体と客体の分離をしていることだ。そうでなければ記述はできない。ヤスパースの「了解」を中心とした場合どうしても生徒を客体(対象)として見ることは避けられない。現象学的精神病理学の手法は主体と客体を分離することなく、主体と客体の「あいだZwischen」の場所が中心となる。「あいだ」は教師と生徒がまだはっきりとわかれていない場所である。
生徒と教師とのあいだにはある種の「感触」がある。統合失調症患者に医師が相対したとき「プレコックス感」と言われる独特な感触がある。「了解」について書いたときには生徒が問題を解くときのその過程に着目したが、生徒と教師のあいだにはそれと並行して人のあいだの「感触」がある。この「感触」は生徒が言ってくるものでも教師が受信するものでもない。生徒が「先生があわない」と言ってきたり、教師が「この生徒はやりにくい」と思ったりしたときも、この「感触」のことではなくただの「『主観的』な感触」(つまり現象学的でない)である場合がほとんどだ。
この「感触」のなかで無理やり教師が生徒の「心的体験」に「了解」的な仕方で入り込もうとしたとき「壁」のようなものに跳ね返されてしまう。これは10代の生徒に独特の「感触」で特に思春期をむかえ自分が大人と子どもの「あいだ」を行ったり来たりする未成熟で不安定な時期に生じるものだ。おそらくそれは塾以外でも生徒が抱いている「感触」ではないだろうか。この世界との「あいだ」に「自然に」生きることが障害されている、そんな時期なのではないだろうか。そういった生徒の「あいだ」の領域における生き方を「現象学的」にとらえ、生徒の将来を「人間」としてより豊かなものにしていくことを検討することがこの現象学的精神病理学の意義だと感じる。
生徒にはそれまで生活世界で自然と思われていたことを、一旦判断停止(エポケー)してもう一度この世界を再構築しなおさせる。なぜならそこに臆見が含まれているからだ。エポケーしてからもう一度世界を理解させる。そのとき現象学的精神病理学の手法を使うわけだが、それは当然人間的なものでなくてはならない。世界の手触りが変わり不自然になったと生徒が「感触」をもったとき教師としての真価が問われるだろう。そこで教師は自分の安易な人生観を生徒に刷り込んではならない。教師は常に陰であり受動的でなくてはならない。生徒は教師の受動を受けて能動的に世界を再構築していく。
力動精神医学(精神分析)
フロイトが無意識と呼ぶ心の領域においては、ある観念や欲動triebが、他の観念や欲動とぶつかりあっていると考えられており、一方の力が他方の力を抑え込もうとしたときにさまざまな病理的現象が出てくると考えられている。 授業でも生徒の状態は刻一刻と変化している。その授業での変化に特に注目していく。記述精神病理学でできるのは授業のなかで生徒がほとんど変化しないことを前提にしているからだ。
現象学的精神病理学でも生徒の世界への棲まい方は授業の前後でほとんど変化しないことを前提としている。力動精神医学では、ダイナミックに動き刻一刻とその状態を変える対象(生徒)に臨機応変に対応していく。生徒は一回の授業で何度も状態が変わることさえある。臨機応変に対応するために力動精神医学の手法は必要不可欠である。
以上の3つの立場の見方をゆるやかに視点移動しながら生徒に相対することが望ましい。
参考文献
『症例でわかる精神病理学』 松本卓也 誠信書房
『自己・あいだ・時間』 木村敏 ちくま学芸文庫
『哲学入門』 ヤスパース 新潮文庫
『哲学』 ヤスパース 中公クラシックス
『精神病理学総論』 ヤスパース 学樹書院
『ドゥルーズ=ガタリのシステム論と教育学』 森田裕之 学術出版会
