松井塾について
松井塾 経営理念
「存在に目を向ける学びへ」
― 松井塾は、「生きるとは何か」を共に問う場です ―
私たちは、生徒一人ひとりの中に「すでにある答え」を見つけるのではなく、
まだ言葉にならない思い、揺らぎ、そして問いに耳を傾けるところから教育を始めます。
学びとは、ただ知識を得ることでも、他者と競うことでもなく、
「自分がなぜ、いま、これを学ぶのか」を問い続ける存在的な営みだと、私たちは考えます。
「主体の意味構成を支える教育」
松井塾では、知識の受け取り手としての生徒ではなく、
世界の意味を自ら構成していく主体としての生徒を中心に据えます。
「正解を得る」よりも、「自分にとって意味ある問いを持ち続けること」。
「教えられる」よりも、「意味をつくり出す関係性に身を置くこと」。
私たちは、生徒が自らの言葉、自らの速度で、「自分の学びのかたち」を編み出すことを支援します。
「固定せず、問い続ける理念へ」
教育とは、本来「変わっていくもの」であると私たちは信じています。
社会が変わり、子どもたちが変わり、学びの意味そのものもまた変化していきます。
だからこそ、松井塾の教育理念もまた、一つの固定された旗印ではなく、問いの場であり続けたいと考えています。
「変化し続ける世界で、『意味をつくる力』を育てる」
今この瞬間にも、世界は複雑に揺れ動いています。
その中で生徒たちが「何者かになる」のではなく、「なりつつあるものとして、自らを生成し続ける」こと。
私たちは、それを最も大切な学びの姿と信じています。
教育の目的とは、「生き方の可能性をひらく」こと。
松井塾は、実存への誠実さと、構造への批判的まなざしを両立させる場として、
これからも学びの中で生徒たちと共に問いを深め続けてまいります。
松井塾の指導方針
当塾では、精神科医であり哲学者でもあるカール・ヤスパースの「精神病理学総論第6部」の精神を基礎に、お子さんの学習指導を行っています。医療において治療が第一であるように、勉強においても成績の向上が第一でなければならないと考えています。しかし、成績向上と同じくらい、お子さんを一人の人間としてしっかりサポートすることも重要だと考えています。その両方を実現するために、当塾の理念が必要となりました。以下は松井塾講師向けの塾理念です。この理念に基づき学習指導を行っています。
精神病理学の教育への転用
・記述精神病理学
• 現象学的精神病理学
• 力動精神医学
ピネルがリンネの方法(属名と種小名の2語を用いる分類法)のように精神症状と精神障害を分類したように、精神病理学も分類を行うために、精神障碍者が語る言葉や行動、表情に見られる「表出」を「記述」するという方法を取ります。ヤスパースは「精神病理学における現象学的研究方向」という論文と「精神病理学総論」という著書の中で、精神病理学の方法論的基礎づけを行いました。彼はフッサールの初期の立場である記述心理学やディルタイの「了解」概念を用いて、精神症状の的確な記述、分類、命名、類型化などを主とする記述精神病理学を体系化しました。
記述精神病理学と現象学的精神病理学の違い
記述精神病理学との大きな違いは、記述精神病理学ではあらかじめ主体と客体の分離をしていることです。そうでなければ記述はできません。ヤスパースの「了解」を中心とした場合、生徒を客体(対象)として見ることが避けられません。
現象学的精神病理学の手法は主体と客体を分離することなく、主体と客体の「あいだ(Zwischen)」の場所が中心となります。「あいだ」は教師と生徒がまだはっきりと分かれていない場所です。
教師と生徒の「あいだ」にある「感触」
生徒と教師のあいだにはある種の「感触」があります。統合失調症患者に医師が相対したとき「プレコックス感」と言われる独特な感触があるように、生徒と教師のあいだにも特有の「感触」があります。この「感触」は、生徒が「先生が合わない」と言ったり、教師が「この生徒はやりにくい」と感じたりする「主観的」な感触とは異なります。
この「感触」の中で無理やり教師が生徒の「心的体験」に「了解」的に入り込もうとすると、「壁」のようなものに跳ね返されてしまいます。これは、特に思春期を迎え、自分が大人と子どもの「あいだ」を行き来する未成熟で不安定な時期に特有の「感触」です。生徒は、この時期に世界との「あいだ」に「自然に」生きることが障害されていることがあります。
現象学的アプローチの意義
このような生徒の「あいだ」の領域における生き方を「現象学的」にとらえ、生徒の将来を「人間」としてより豊かなものにすることを検討することが、現象学的精神病理学の意義だと感じます。
生徒にはそれまで生活世界で自然と思われていたことを、一旦判断停止(エポケー)して、もう一度この世界を再構築させます。なぜなら、そこには臆見が含まれているからです。エポケーした後、もう一度世界を理解させる際に、現象学的精神病理学の手法を使いますが、それは当然、人間的なものでなければなりません。
教師の役割
生徒が世界の手触りが変わり不自然になったと感じたとき、教師としての真価が問われます。教師は自分の安易な人生観を生徒に刷り込んではならず、常に陰であり受動的でなければなりません。生徒は教師の受動を受けて能動的に世界を再構築していきます。
力動精神医学
フロイトが「無意識」と呼ぶ心の領域においては、ある観念や欲動(trieb)が他の観念や欲動とぶつかり合うと考えられています。そして、一方の力が他方の力を抑え込もうとするときに、さまざまな病理的現象が現れると考えられています。授業でも生徒の状態は刻一刻と変化しており、その変化に特に注目する必要があります。
記述精神病理学では、生徒が授業中ほとんど変化しないことを前提としています。一方、現象学的精神病理学も生徒の世界への棲まい方が授業の前後でほとんど変化しないことを前提としています。これに対して、力動精神医学では、刻一刻と状態が変わる対象(生徒)に臨機応変に対応することが求められます。生徒は一回の授業で何度も状態が変わることさえあります。そのため、臨機応変に対応するためには力動精神医学の手法が必要不可欠です。
以上の3つの立場の見方をゆるやかに視点移動しながら、生徒に相対することが望ましいと考えられます。
まとめ
フロイトが「無意識」と呼ぶ心の領域では、さまざまな観念や欲動(trieb)が互いに衝突し合っています。これは、無意識の中で異なる思考や欲望が対立し、一方が他方を抑圧しようとすることを意味します。このような内部の葛藤が原因で、さまざまな病理的現象が現れるとフロイトは考えました。授業においても、生徒の心理状態は刻一刻と変化します。そのため、教師は生徒の変化に注目し、適切に対応することが重要です。ここでは、3つの精神病理学的立場について説明します。
1. 記述精神病理学記述
精神病理学は、生徒の状態が授業中ほとんど変化しないという前提に基づいています。つまり、授業を通じて生徒の心理状態は安定しており、大きな変動はないと見なします。この立場では、生徒の行動や発言を詳細に観察し、その記述を通じて理解を深めます。
2. 現象学的精神病理学
現象学的精神病理学も、生徒の世界への棲まい方が授業の前後でほとんど変化しないことを前提としています。ここでの「棲まい方」とは、生徒がどのように世界を認識し、体験しているかということです。現象学的アプローチでは、生徒の主観的な経験や意識の流れに焦点を当てます。
3. 力動精神医学
これに対して、力動精神医学では、生徒の状態が刻一刻と変わることを前提としています。生徒は一回の授業の中で何度も心理状態が変わることがあります。力動精神医学は、このようなダイナミックな変化に対応するための手法を提供します。具体的には、生徒の内的な葛藤や感情の動きに敏感に反応し、その場その場で適切な支援や介入を行うことが求められます。現象学的精神病理学も、生徒の世界への棲まい方が授業の前後でほとんど変化しないことを前提としています。ここでの「棲まい方」とは、生徒がどのように世界を認識し、体験しているかということです。現象学的アプローチでは、生徒の主観的な経験や意識の流れに焦点を当てます。
総合的なアプローチ
以上の3つの立場の見方を柔軟に視点移動しながら、生徒に向き合うことが望ましいです。記述精神病理学の詳細な観察、現象学的精神病理学の主観的経験の理解、そして力動精神医学のダイナミックな対応を組み合わせることで、生徒の多様なニーズに対応することができます。
